「分かったぞ。宮川彬良作曲だからヤマトと接点があると言いたいのだろう?」
「外れだ」
「えー」
「音楽に声を使う場合方向性が2つある。言葉に意味を持たせる方向性と、声から意味を剥奪してただの音として使う場合だ。大多数の歌は前者にあたる」
「声をただの音として使うってどういうことだよ」
「ララーとか、ルルーとか、そんな感じ。言葉になっていないから意味は無い。声が楽器に近い」
「分かった。アカペラ楽団的な方法論というわけだろう? 烏山で彬良さんと一緒に出てきた」
「そこじゃないよ」
「えー」
「だからさ。ヤマトの場合はスキャットがまさにそれ。ひたすら、あ~あ~と言ってるだけで言葉なんてない。合唱になってもラーしか言わない」
「交響組曲だね」
「そうそう。完結編あたりに来ると男声合唱で低く盛り上げていく使い方もある。だからそういう声を音として使ってしまう方法論は、おそらくヤマトを経由して宮川彬良さんにも染みついていたのだろうと思う。それはむしろ好ましい方法論であるとね」
「好ましいの?」
「自分は大好きだ。人から言葉を奪って、言葉の特権性を剥奪して、声も楽器のように扱ってしまうタイプが大好きだ」
「当然中間領域もあるんだよね?」
「そうだ。たとえば、スラングルのOPは歌詞としての意味が乏しく音扱いに近いが、それでもまだ言葉は残っている」
「ゴリラの連呼は。半分音だってことだね」